日は沈んでも朝日の昇るときは来る 2

 


  味噌作りは家族総出で行う。

笹冬の町は味噌は作るもので魚の様に店では売っていない。

秋田市内の高校に行くまでそう思っていた。


 家の玄関先に七輪を持ってきて枯れ枝や杉の葉をたく準備をする。

あらかじめ豆は大きな鍋に入れ二十四時間も寝かしておく。

次に水に入れて置いていた豆を鍋に移し替えて煮込に入る。

 大豆の香りと七輪から燃え立つ煙、木炭も薪も入れているがこの煙は喜びの様に空に上がり広い田圃の周囲に煮込んだ豆の匂いが遠くまで行き渡る。
 
  この日に合わせ麹を用意しておく。

 

筵に撒かれている麹は今にも動き出しそうだ。

塩も必要だし、醤油も準備している。

 煮えた豆はヘラや木の棒で砕きこれらを練り大きな竹を鉢巻きのように巻いた木の樽に2個分も作って入れた。

直径深さ共に1メートル以上もある。

 豆を茹でるのは一度や二度でない。

鍋は普段の調理用だからとても小さく見える。

鍋は2日間この味噌作りに使われる。

だがこれは春の楽しい恒例行事となっている。

 家の中のヒンヤリとした暗い所に樽を置いておく。

次期を見て、一年じゅうこれを食べる、

もちろん発酵後である。
 
  豆を使う手作りに納豆作りがある。

これは真冬に行う。納豆は魚屋で売られているような強い粘りはないが、茹でた豆を藁で容器を作り寝かせているだけで少し粘る納豆ができた。

 農家は道具も手作り、漬物も手作りでとてもある意味では豊かな村だった。

貧しいことを忘れさせ,意識させなかった。
 
 ⑻ 三浦桜子

  『私達クラスの委員だからしっかり先生の言うことを聞いて楽しく安全な旅行としないといけないわ』
 
  こう笹冬を見つめて言うのは六年生のクラスメートの三浦桜子だった。

この同級生はかつて五年生の時相性の悪い担任にぶつかった笹冬をいつも助けてくれた。
 
  新潟地震の時、一階の音楽室にクラスのみんなが集まっていた。

どういうわけか担任の伊藤良二もいた。

 地震と分かると真っ先に生徒を置き去りにして一階の窓から校庭のグランドに飛び降りた。後日皆の笑い物だった。

 笹冬が三歳上の兄と家でけんかをしていると職員室で公然と言う男だった。

忘れもしない。

 またこんなこともあった。

何か知っていることをみんなの前で話して聞かせてほしい、こう言われてクラスメートに指名されたのは笹冬だった。

 そのころの笹冬は戦国乱世の武将の戦記伝記をたくさん読んでいた。

徳川家康豊臣秀吉織田信長と好きな読み物だった。

 信長の物語を始める。

信長の父信秀が死去すると、こう話をした途端、信長の父は信秀ではない。

 声を荒げて話の邪魔をするのだった。

教師でない人がいた。
 小学五年生の悪夢も過ぎた。
 こういう時いつも慰めてくれるのはクラスメイトの桜子だった。

シャツが綻んでいたり
すると、自分の小さな裁縫セットを取り出し素早く縫ってくれたりした。

 ハンカチの手ぬぐいが汚れていたりすると蛇口まで駆けて行き洗ってくれたり、いろんな親切をしてくれた。

ニコニコ屈託のない笑顔が素敵な少女だった。
 
  『笹冬君、気にすることないわよ。

お腹にも悪い菌と良い菌が同居しているのよ。ここの小学校にも悪ーい先生が蟻の数ほどいるのよ』

 『子供に無理難題を背負わせて良い教師の顔して、私公務員です、なんて笑ってしまうわ、あの給料は税金の塊って言うんだよ。

おほほーほっと』
 
  『語り部代表はクラスのみんなが笹冬君を指名したわ。

もしも私がみんなに当てられたら、与謝野晶子の伝記の物語を話そうと思ったわ』
 
  『エエッ、与謝野晶子ってどんな人でしたか』
 
  『ほら国語の教科書の、金色の小さき鳥の形して』
 
  『ああそうか、銀杏散るなり夕日の丘に』
 
  『いい歌でしょう』
 
  『はい、この歌の情景は僕の笹村部落のお墓が南に面し三、四メートルぐらい坂を上がったところにあります。

銀杏の木は下が広い田圃しかありませんからさえぎる木も建物もありません』

 『馬場から笹村に行く遠くの道路からもあれは墓と分かります。

そこに銀杏の木が二本墓を覆う様に葉を広げ茂っているのです』
 
  『まあそこの墓の銀杏を思い出すのね、笹冬君ってとてもロマンに欠けるのね。

お墓の銀杏じゃチョットね。

ま、それでいいのか、奥手だからねー、きっと晩婚型よ、あんたって、おほほー』
 
  『相かわらず多弁の桜子さん、またどうして歌人与謝野晶子なんですか』
 
  『実は私の父は短歌を作るのが趣味なんです。

その時誰の歌が好きか父に聞いてみたんす。

すると与謝野晶子と答えたんです』
 
  『へえー、物を書くより田を作れ、こう農家は言いますね。

よくぞ文芸の道を志して』
   
  『そうなんです、この笹村では仲間を作れません。

それで矢島本荘の仲間の家に時々歌会に行くんです。俳句もやっていますよ、だから句会にもよ』
 
  『桜子さん、与謝野晶子のどんな所をみんなに話したかったのかなあ』
 
  『父から教えてもらったんです、短歌も俳句も、最も言いたいことを言う。

時代に先駆けて鐘を鳴らす、鐘を叩く、時代の不合理、矛盾と戦うのが文学だ、と。反戦の詩では、弟よ死ぬな、人を殺せと父母が教えたことがあろうか、父が愛唱の詩の一節よ』

 『時代が遅れているなら歌人自ら世の中を引っ張る、そんな生き方を明治大正昭和にかけて実践した偉大な先駆者なんですって』
 
  『世の不可解に激情の声を上げる、その心詠わずして何が短歌であろうか、激しい言葉と心情は、ああ君死に給うことなかれ、戦争反対の勇気となって具現される。

動乱の時代にはこんな人がいたんですね』

 『それが歌人であり女性だったとは、驚きです。女性の新しい生き方をすでに予見し切望していたんですね』
 
  ⑼ 修学旅行

  『さあ、私達学級委員長と副委員長よ。宮城仙台青葉城芭蕉の松島瑞巌寺、絵葉書でしか見たことないわ。

今年は特別にオプション、福島の常磐ハワイは海の見えない陸のハワイだそうよ』
   
  『春の修学旅行はやることいっぱいあるのよ。先生が決めた部屋割はみんな不満よ、仲良しと分かれるなんてイヤだー、女の子は部屋割りを見て非難轟々よ。

大人は乙女心を理解しない卑しい家康型狸です』
 
  『そういう旅行のガイドや行程時間は丸山先生がガリバンで書いてくれたのよ、謄写機で印刷しなければ、それから大切なことがもう一つあるわよ』
 
  『笹冬君これ見て歌集に載せる歌のアンケートよ。

小学校の校歌、荒城の月、お正月、春が来た、春の小川、早春賦、どこかで春が、朧月夜、夏は来ぬ、我は海の子、旅愁、虫の声、紅葉、雪、冬景色』

 『汽車、故郷、浜辺の歌、靴が鳴る、浜千鳥、叱られて、シャボン玉、どんぐりころころ、赤とんぼ、赤い靴、風、夕日、揺り籠の歌、月の砂漠、夕焼け小焼け』

 『あの町この町、からたちの花、この道、大きな栗の木の下で、チューリップ、うれしいひな祭り、さくらさくら、こいのぼり、牧場の朝』
 
 『椰子の実、うみ、里の秋、たきび、スキー、めだかの学校、夏の思い出、ちいさい秋みつけた、冬の星座,いぬのおまわりさん』

 『とんぼのめがね、ドレミの歌、ぞうさん、かあさんの歌、大きな古時計、手のひらを太陽に、港、こうよ』
 
  これは日本編です、他に外国の曲も歌集の候補です。

『故郷の廃屋、夢路より、故郷の人々、ケンタッキーの我が家、金髪のジョニー、オールドブラックジョー』

 『おおスザンナ、遠き山に日は落ちて、峠の我が家、雪山賛歌』

 『アルプス一万尺、思い出のグリーングラス、ドナドナ、花はどこへ行った、アロハオエ、花まつり、久しき昔』
 
  『どう、どれも捨てがたいでしょう』
 
  『まだあるんですか』

 『日本歌謡曲編、いつでも夢を、霧氷、下町の太陽、バラが咲いた、高校三年生、高原のお嬢さん、学園広場、こんな物載せていいんですか』

 『校長の許可もでたって。

修学旅行時のみの特別許可なんてとても信じられないがうれしいなー』
 
  『そうよ、男の汗臭いムンムンする歌が多いのよ、裕次郎、佐竹、浩二、三橋美智也、春日八郎、三波春夫フランク永井水原弘、守屋浩、村田英雄』

 『田畑義男などそうよ。小林旭の流離もの、鶴田浩二の任侠ものヤクザ者、こういうのは女の子は大嫌いよ。

夢もロマンもないでしょ。だから教育の場で軽蔑されるのよ、これらは永久追放だあ』          、
 
  『それに比べ外国の映画音楽なんか、まるで夢の世界よ、知ってる、聞いたことある、笹冬君』
  『知らないのも自然の道理よね、何せ笹高村は自然の宝庫だから、オホホーっと』

  後日話しを聞いた。それは、太陽がいっぱい、ジョニー・ギター、禁じられた遊び、ブーベの恋人、白い恋人達ある愛の詩、夜霧のしのび逢い、鉄道員、追憶、雪が降る、愛の賛歌、恋は水色、砂に消えた涙,夢見るシャンソン人形、悲しき天使、などだった。

 いつ何処で桜子はこんな音楽を聴いたり映画を見たんだろう。

笹冬の学校の休みには毎日山菜取りしかしていない。

自分の知らない世界にいる彼女が急に大人びて見えた。 

  『笹冬くん、これ見て』
 
  ニコニコして手渡しをしてくれたのは宿泊先の旅館でのお楽しみ会の予定表だった。何これと目を疑った。" いつでも夢を〟のデュエット、笹冬・桜子と大きく書いていた。

 人前で歌など歌った試しがないのにしかも桜子と並んでみんなの前に立つ、想像しただけで汗が出てくる、恥ずかしくなった。

笹冬が当惑した表情でこのプログラムをじっと見ていた。
 
  『なにどうしたの、人前に立つのは学級委員長として慣れているでしょう。

 

これは余興よ、放課後校舎の裏のあの大きな栗の木の下でお二人練習しましょうね』

 『私は男性の所も歌うから、笹冬君は女性が一人歌うところだけ気をつけて私を見つめていて。男性の所を一緒に歌ってくれればいのよ,簡単でしょ。

遊びよ緊張なんてないわ』
 
  こう言っていつも励ましてくれるのだった
が、桜子をじっと見つめる、それも歌が終わるまで。

その時間は相当長く感じるに違いないと思った。
 
  『桜子さん、フラダンスもやるんですか』
 
  『そうですよ、本物は常磐ハワイのプールで水着を着て見物です。

旅館では有志の女の子十人一組で三組が踊りを手作り衣装で発表します。

期待しいていてね』

 『私達の組は薄いピンクのブラウスに紺と綠の花柄模様のパウロロングスカートに決めました』
 
  『ええっ、ややこしいですって。

服装にも無頓着様ね笹から生まれた笹太郎殿、この踊りを見たら早く結婚したいと思うでしょう。あそこは南国のハワイそのものよ。ハワイはカメハメハ大王のふるさと。

その晩にみんな女の子は王様のお嫁さんになった夢を見るのよ。

そういう訳で旅館の寝室は一般男子と普通の男の子の出入りは禁制なんですー、よ、おほほー』    
 
  快活に笑う桜子はとても仲良しのお友達です。

それからとうとう出発日になった。

二人とも大忙し。

 歌本やバスの中での飲み物サイダー、お菓子を入れた。もしはぐれて迷子になった時の集合場所など、場所と道の尋ね方、困ったときはどうするか集、本も積んだ。

 コピー機などない時代です。

担任の丸山先生は行く先の場所を書いたバスのルートの案内図の作成に追われていたが無事に出発日直前には完了していた。
 
  ⑼ バスは出発

  『二度と帰らぬ 思い出乗せて クラス友達 若い僕らの修学旅行』
 
  いよいよバスは三クラス六年生の百九名を乗せて出発しました。
 
  『うわー、見てー海は広いな大きいな,松原遠く消ゆるところ』
 
  小学四年生の時の日帰り象潟修学旅行を思い出します。

笹髙原の小学生はそれまで青い海も矢島線の汽車のモクモク煙を出してガオーンと勇ましい音の出す乗り物は殆どの子が初めてでした。
  
 バスは笹髙原、川内、矢島、本荘と象潟に向かう途中です。

三台のバスは順調に春のそよ風の中、新緑を長い車体に映らせて、春の花は子供達の楽しみのために咲いて修学旅行の今日の日をお祝いしているかのようです。

 バスの中は子供達の歓声とおしゃべりと驚きの声が入り乱れて、蜂の巣を突っついたかのように大騒ぎだがうれしい悲鳴が飛び交っています。

もうクラスメイトは感激するやらうれしいやらごった返しの歓喜です。 
 
  こんな大きな海だから恐竜もいるかもしれない。

笹冬がふと何気なく言うと、誰かが西目をすぎた、次は金浦と仁賀保の海を通る。、おらのお父もお母も言っていた、笹髙原の魚はみなこの港から水揚げして運んできて貰っている有り難い魚の港なんだと。

 バスで其処を通るときは海に向かって毎日おいしいととこ(さかな)をありがとうございますと、海の神様にこう言うんだと教えられた。

これを聞いた子供達は一斉に、海の神様ありがとうございます と大きな声で合唱した。
 
  この頃、東北の寒村笹髙原に町の魚屋は二軒しかなかった。

呉服屋も二軒。

文房具と雑誌を置いている店は一軒。

酒屋二軒。

駄菓子屋が二,三軒有ったろうか。

他は役場の支所、農協、郵便局と数えるぐらいの商店しかなかった。
 
  その時、隣の誰かが、ああそうだよ、みんながその話を聞いている、朝の店に並ぶ秋刀魚もハタハタも蛸もロウソクボッケもみんなここから運ばれてきているんだ。

此所の海岸は山里に海の幸を運んでくれる幸いの海、そして港がある。

 空は天高く何処まで行っても島も何もない大海原だが、日本海の海は漁港としてとても豊かだ。魚を食べられたからお墓の祖父祖母も太古の祖先も生きてこられたんだ。
 
  だが海は怖いんだ、農家には足で立てる大地があるが海には船以外は底なしの海の水があるだけだ。

船から落ちたら最後だ。嵐に巻き込まれて船が沈没して海に投げ出された漁師が死ぬ事もある。農家に冷害や不作はつきものとは言え、いきなり死んだりはしない。

 漁師には師という文字が付く。

 

農師とは言わない。一度海に出たら命がけなんだ。こんな魚が笹髙原まで来るんだ、安いはずはない。

こう言うとみんなしんみりしてしまいました。
 
  さて美しい車掌さんが白い手袋をして旅行の行き先のアナウンスをしています。

こんなに大きなバスにもこんな美しい車掌さんにも、乗ったこともないし出会ったこともない。

 大きな声で話したり外の景色を珍しい物 でも見るかのように身を乗り出す者、とバスの中は大騒ぎが復活しました。

  ⑽ 鳴子温泉郷

 バスのルートは、日本海を見ながら国道七号線で羽越本線に沿って南下し、象潟、酒田市に向かう。そして陸羽西線陸羽東線に沿った国道四七号線で日本列島の山形宮城を横断するようにあの有名な鳴子温泉郷を通る。
 
  笹村小学校六年生松組のみなさん、いよいよお待ちかねの鳴子温泉郷はもうすぐ見えてきます。右手の方向桜の見えているところがバスの休憩所です。サービスエリヤといいます。
 
  またどうして鳴子温泉郷をみなさんごぞんじなのですか、と若い車掌さんが聞きました。

 クラスメイトの男の子が、この鳴子は渓谷が深く一〇〇メートル位にしか見えないが本当はもっと深く、降りていっても谷底がない底なし沼の様な渓谷なんです。

 母は言っていました。バスを降りれば二人の仙人に会えます。しかしこれは町の桜祭りの仮装大会です。

 しかし谷を少しずつ降りていくと本物の仙人が十人、二十人と上を見ながらなにやらしています。谷の深海魚のようです。

 ますます降りていけば五十人、六十人といます。更に勇気を出して下の方へ降りていくと百人の仙人、千人の仙人にも会えるという伝承が有ります。
  
  『はい、そんなに沢山の仙人に会ってどうするのですか』
 
  と車掌さんは不思議そうです。
 
  『大事な話はここからです。仙人に会えば会うほど年を取るのが遅くなる、顔の皺がふえない、病気になりにくく医者もいらない』

 まるでアインシュタインが光速のジェット機宇宙旅行をしたときの再現が出来ると言う事なんです。

こう笹冬が付け加えました。

 谷底は時間の流れが地上よりとても遅いんです。

人類の一日の歩みが蟻の半歩の距離です。と言う事は距離に時間をかけあわせた、単位はミリ秒が地上の正確な時を刻む時計なんです。

 若しかしたら浦島太郎修学旅行となったりして、谷底から這い上がってきたときは、地球文明が崩壊してサハラ砂漠になっているかもね。

仙人化石物の油田が日本各地の神話の伝承の如く嘘八百ボコボコ出てきたらさぞ愉快だろうな。

 そんなこと知らないが、僕の話は続きます。
クラスメイトの男の子は言いました。
 
 『長生き健康間違いなしこう囁かれているんです。

母はせめて峡谷の写真だけでも記念写真に納めるように頼まれておくれ,そうしたら毎日拝んで幸福に過ごせるだろうから、と言うんです』
  
  丸山先生, どうしましょうかと新任の旅行補助とカメラマンの同行の教師が尋た。
 
  『いいでしょう、この風光明媚な峡谷は曾て私が学生時代にアメリカに留学した時の  赤い河の谷間の日本版は綠の河の谷間を彷彿させます』

 『幽玄この上なく日本人の感性想像力の逞しさを感じさせる。休憩し鳴子温泉郷の修学旅行の記念写真をここで一枚撮りましょう』
 
  ⑾ 青葉城

  さて、仙台に着くと観光地巡りです。

緩やかな坂をグルグル周り上りきると伊達政宗が馬に乗って今でも戦場に赴かんばかりの銅像青葉城にあります。
 
  『ねえ正宗君って何食べていたのかしら』
 
  『そんなことより,好みの女の子なはどんなタイプだったのかしら』         
 『きっとお酒も女も好きだったんでしょ、
名前からしてもそうじゃない,正宗酒、正宗姫とお土産がいっぱい並んでるもん』
 
 『ははー、正宗君のお后になりたかったとみんなの前で言ってやろうっと』        
  コラーと、とても楽しそうです  
 
  『なぜ青葉城というか知っている』
 
  『綠豊富な松、楠、橡,桜、植物花が多いからでしょう』
 
  『いいえ、地名の青葉です』
 
  『どうして人気があるのかしら』
 
  『正宗は奥州特に福島会津の戦国の覇者で、あの家康も恐れたんです。

しかし関ヶ原の戦いで不穏な動きをした為、大勝利の戦後も領地の加増を反故にされたんですよ』
 
  と口を挟んだのは笹冬だった。

よく知っているわねー。

小学校二年三年四年と何時も最後まで算数が出来なくて居残り組のトップが今は学級委員長だから変われば変わる物ネーと、からかいながら歩いて行った。
 
  ⑿ 松島、瑞巌寺

  『カモメの水兵さん 並んだ水兵さん 白い帽子 白いシャツ 白い服』
 
  松島やああ松島や、松島の観光客船に乗った子供達は大喜びです。

お菓子など手に持っているとカモメに突かれてけがをします。

 カモメ用の餌を販売してます。海に向かって投げて下さい。

このようなアナウンスがある。

カモメって大きいなあ、それになんて白いこと、笹髙原の雪のようだ。

ところで松島という島はどれなんだ。人が上陸できないような島か岩か分からない。

 私達船に乗るの初めてよ、チョット怖いけどこんな絶景見たことないわ。子供達はここでもおおしゃわぎです。それもそう初めて見る物聞く物だらけです。

初体験修学旅行の真っ最中なのです。
 
  『笹村小学校のみなさん、瑞巌寺に到着致しました。見学が終わりましたら昼食と致します。丸山先生からお話があります、先生マイクをどうぞ』
 
  『はいそれでは一言、みなさん昨日今日と仙台の青葉城塩竃、松島と色々見てきました。良かったですか』
 
  ハアーイと、元気な返事が帰ってきました。
 
  『この二日間、天気にも恵まれ車酔い船酔いする人もおりませんでした。

もちろん迷子もいません、しかしまだ旅行の途中です。無理せず我慢もしないで下さい。

笹髙原と違い此所は東北地方を代表する大都会です』
 
  『知らない人や不審な人がいたらその場から去り逃げて下さい。

他の県からも修学旅行の生徒がやってきています。

何かいやなことを言われても喧嘩をしないでその場を去って下さい。逃げるが勝ち、みんないいですか』 
  瑞巌寺の境内に入るとみながビックリしました。

この境内の広いこと、笹村の慈恩寺に比べたら慈恩寺は手の平くらい。

 だが、瑞巌寺は野球場だ。そう思いながら進んでいくと誰かがガイドさんに質問していた。

なぜこんなに広い敷地なんですか。

これでは仙台松島の遺骨を全部埋めても百年二百年経っても使い切れないでしょう。

 敷地にくまなく墓地として使用している五百戸世帯の檀家、慈恩寺を見てのことだった。

するとガイドは笑いながらこの敷地は伊達政宗とその一族の菩提寺ですと言った。

 建物は荘厳です。

内部の装飾と絵画も素晴らしいです。

初めて見る寺院の美術品の壮麗威厳にみなが驚嘆した。
 
  ⒀  茶碗蒸し

  『なんてお膳の綺麗なこと,見たこともない食べ物よ』     
 
  こう声を上げたのは桜子だった。

昼食のお膳に並んでいるのは牛タンと牛肉、アワビ、鯛、鮪の刺身だった、勿論寺院の外のレストランである。

 昆布のサラダや小豆を煮ておにぎりにしたものには、青森の国光林檎の大きさくらいでメニューには蹴鞠貴族ランチと書いていた。
武士ランチ貴族ランチの一騎打ちレストランという店名が長々と描いていた

 よく売れた方が今日の勝者、と言っても所詮仙台藩は武士の地、武士が毎日天下を取っていた。売り上げを操作するのは大阪商人から学んだ物か。 
 
 特にみんなの興味を引いたのは、茶碗蒸しというメニューのお品書きだった。
 
  早速口を開いたのは桜子だった。
 
  『ねえー桃子さん、茶碗蒸しって知ってる。

こんなにかわいらしい花柄の瀬戸物に小さな蓋がチョコンと乗っていて、なにかしら』
 
  『私の家は魚屋だけど、たべれるような虫はイナゴの佃煮ぐらいかしら、せーののかけ声でみんな同時に開けてみましょう』
 
  何時も賢い桃子はみなを見回しこう提案しました。
 
  するとクラスの乱暴者で笹冬のお友達の高橋勝治君が言いました。既に蓋を開けていたのです。クンクン、イヌのように匂いも嗅いでいました。
 
  『おい、みんなこれ見てみろ。

黄色の豆腐みたいだ、鶏肉の匂いがする、正月のカマボコもあるぞ、なんだこれ椎茸の匂いがプンプンしている、ウサギのえさに似た綠の草もあるぞ』
 
  そう言いながら茶碗の底を突いてみた。
 
  『みんな虫はいないぞ、イナゴかバッタ、蜂の子でも入っているのかと、本当にドキドキしたなー、料理は蓋を開け味わうまでは分からんな、先生の言う通りだ、都会は恐い所だ』
 
  『怖いー』
 
  女の子達は悲鳴を上げました。其処に何時も冷静な村長の娘高遠燕子花さんが登場しました。
 
  『こんな豪華なレストラン瑞巌寺亭は東北でも屈指の高級料亭よ、この茶碗蒸しの卵の味、そして蒸した鶏肉なんか食べたことがないわ』
 
  『私達の田舎では魚は高価、肉は正月にウサギの肉ぐらい、今日の副メニューの餃子なんて中国四千年の歴史よ、今日こんな料理を見て食事できるなんて夢みたい,秦の始皇帝も食べていたんでしょう』
  
  博学の人見識のある人知識人の燕子花さんの話にみな聞き入ってしまったのです。

燕子花から聞いた〃私達の田舎〃という言葉が耳から離れない。
 
 そうか僕達も私達も田舎から来た田舎者だったんだ、食べ物も文化も交通機関もずっと遅れているんだとしみじみと思った。

 同郷同村のお二人には物を見る目に雲泥の差があるのをみな痛感するのです。

燕子花さんは立ち上がってみなに元気をつけるために言いました、
  
 『みなさん、この茶碗蒸しというお料理の材料と作り方を教えてもらいメモして笹髙原に帰りましょう』

 『茶碗蒸しという料理がおいしかったと言うだけでなく、家で待っている母と家族に作ってやって修学旅行のお金を工面してくれた父母に親孝行するのです』
 
  『賛成ー』
 
  と女の子達は手を上げて大喜びです。

係の女中さんがすぐやってきて、茶碗蒸しは蒸気で蒸のが特徴ですと続けて、

 特別な専用の蒸し器でなくても、みなさんの家でお盆などにせいろで赤飯を作りますよね。

秋田のせいろは底がとても深く大きいと聞きました。あれを小型にしたものを、下にお湯を沸かし、蒸気が上に来るようにするなら何でもいいんです。

 入れ物はご飯を食べるお茶碗で十分。

用意する材料はメモに書きました。

大体このような物です。

みなさんのふるさとの蕗やみじ、山芋、栗など加えたら季節ごとの山菜茶碗蒸しが出来て面白いことでしょう。

 入れる具の野菜に決まりはないですが鶏肉は小さく切って入れるのがこの料理の特徴です。

メインは鶏肉と玉子です。

だし汁の作り方もとても簡単でみなさんお家にある調味料です。

さあ、これがレシピです。

 みなさんどうぞメモをして下さい。

こういって食事係の従業員は燕子花さんに茶碗蒸しのメモをわたした。

それを女の子達は急いで鉛筆を取り出してメをモした。 

  茶碗蒸しの作り方(三人分)瑞巌寺夢子作

卵 …二個
だし汁 …二百ミリリットル
薄口しょうゆ …小さじ二杯
塩 …小さじ五分の一
椎茸 …一枚か二枚
鶏もも肉… 五十グラムg
かまぼこ… 四切れほど
三つ葉… 四分の一ほど
 
 と、子供達は貴重な料理とレシピを頂いた。

    ⒁ 村の牛タン騒動

 しかしこの昼食のお品書き、牛タンが笹村に帰った子供達に思っていないチョットした波紋を呼ぶことになる。
 
  牛タンを食った農家の牛はやせ細り草を食わなくなり弱ってくる、その家には鍬や鉈で怪我をする人が出てくる。
 
 包丁で怪我したり、縫い針を刺したり、鉛筆を削ろうとして指を切る。

山で遭難する、嫁が来なくなる。

水が涸れる。

 こんな噂が流れていた。和牛農家は牛の舌を食ったら大罰が当たる、こういう人も出てきた。牛が舌でもって祟りに来る。

などと言うことがまことしやかに村人から村人に伝わっていた。
 
  『校長、この騒ぎを御存知ですか』
 
  村の住民はこう詰め寄った。
 
  『ええ、知ってますよ,誰が牛タンを食すれば罰が当たったり祟りがあると言っているんですか』
 
  高校長は言った。そもそもみなさんの笹村においても和牛を飼う農家が増えていますね。子牛を売れば二十万円にもなる。

出稼ぎに都会に働いて六,七ヶ月分の給料に少し足りないくらい,良い現金収入になる。

 そのため夏草を刈り冬の食べ物を蓄え藁同様乾燥させた米ぬか粗塩迄混入させて牛の食べ物と健康に気を配っています。
 
  詰めかけた村人は、弥助から聞いた、いや猪ノ吉だ、いや菅七、そうじゃない天神の金次郎だ。若しかしたら中村の三付けか。

 校長を訪ねてきた五人の村人代表はめいめい知っている者の名前を挙げたが、結局最初に罰当たる、祟りがあると言った人の特定はできなかった。

その後証人が現れ、次のように再度校長に面会に来た。
 
  悪い噂を流した主の目星がつきましたよ,富山から来たというとんでもない真っ赤な嘘つき偽トヤマがイタコと称し効き目のない薬を各家に置いたり、一年後請求にこの笹村に来ています。

 悪い噂を流し薬もどき売りの副業です。のどかな農村に噂やゴシップがよく似合う。

心にばい菌をばらまき人々の関心を引きつけ、知らぬ間に現金を出させて商品を売りつけるイタコ商法とやらです。

  イタコとは二本足で地を歩く黒い嘘つき鴎よ、と豪語している。

 青森のリンゴを売りながらイタコの副業をする、山形の花笠を売りながら、岩手の塩辛を売りながら、北海道の鰊を売りながらイタコをやっているそうです。

イタコは大もうけをしています。

人手不足のためイタコを募集中とのこと。
 
  『なんと嘆かわしい事よ,子供の夢を壊すのは何時も大人だ』
 
  校長は溜息をついた。

そもそも牛タンと言う名は日本語と英語が組み合わされている。

敗戦後仙台にGHQが駐屯した。

 肉好きのアメリカ兵に食わせる牛も鶏も豚もなく困っていた。

ここに佐野という調理人が捨てられてい牛の舌を調理の具としたところ、大当たり。

これが始まりです。

 戦後の混乱と復興期,一心太助の一心を取り太助として開業したのです。

牛を食すれば罰が当たるなどと言う流言蜚語で誰が得すると思いますか。

 ただの悪人、世と人を混乱に陥れるのが目的です。まあ古典的なテロ行為です。

彼らは古典派のテロリストです。
 
  校長は詰めかけた村民の不安を払拭したのだった。病気になれば地元のイタコに病魔退治の祈祷をまた家に不幸があれば悪魔払いの祈祷を願う。

 交通安全火事病気その他あらゆる災害災い除けの祈祷をする、この笹村にはまだまだ悪しき因習が残っていた。
 
  貧しい農家が牛を飼うのは大変な負担、重労働になってしまう。

笹冬は朝露に濡れた牛の草を背負って家に着く母の姿を何回もいやなほど見た。
 
 あの日あの時少しでも背負って手伝っていたならば、今は心が晴れているだろうか。

 牧草地も草刈り場の土地もない貧しい農家は他人の遠い草刈り場を借りる。
 
 その草を刈り背負い暗い夜の明けきらない道を通り、息を真白に吐き、露でずぶ濡れになりながら帰ってきた。

 このような過酷な労働は母の死期を早めることになった。

後年笹冬はそう思う。

  ⒂ 思い出す小さな出来事

  人の記憶、思い出とは不思議な脳の出来事か。

必ず覚えていなければならないという物ではないし、経験した中でも強烈でもないものもある。

些細な事柄がふと浮かんでくるのは驚きだ。

 忘れていないその時の思い出とその時話していた人々の声も、命じられたこともないのに時には鮮明に、また朧気に水中からゆっくり上がってくる苦楽浮遊物のように思い出される。

それは時には苦く時には甘い。

 薄い薄い記憶のミクロの紙は何億枚も人の脳細胞に重なって整然と入っている。

 時には順番にあるときには突如として、望みもしないのにユックリひらひら愛おしく舞うように剥がれ出てきて、記憶を持ち主に無言のままなにも飾ることなく過去の所業を蘇らせる。
 
  この一つに小学校六年生の時、学校から一時間ほどの田園と小さい丘とも野原とも言えないが山の麓まで遠足に行った思い出がある。

 この時の集合写真の一枚にクラス全員の写真があり、小学校が作成した手作りのアルバムに収まっていた。

 アルバムの表紙は、厚手の画用紙を縦十八センチ、横二七センチに切って閉じ方向に二箇所穴を開けシチールリングを通して全体の厚紙止めている。そんな簡素に加えページも一七枚と質素だった。

 アルバムの文字は、昭和四〇年と黒色で一番上に32Pの半角空きのセンター揃えの横書きをしている。その先頭の文字に少し離れた横と少し下に離れて小学校の校章が綠色で笹をあしらい直径四〇ミリ程の大きさで置かれて、文字の上端に合わせる様に意識した配置は安定していて丁度いい。
 
 卒業記念の文字は二〇ミリ角の文字で横書きの大きい赤色を表紙の上下の中心に全角空きのセンター揃えでまとめていた。

やや行書体でそれは堂々としている。手書きで書体を作った先生の心が伝わってくる。

 一番下には横書きの文字の黒色で、鳥海村立笹子小学校と45P半角空きのセンター揃え、計三色刷だった。

どの文字も手作りの良さが伝わってくる。

 しかし自分のアルバムで残っている写真は九枚だけで二枚はがした痕跡があった。写真がなくて埋まらない所の紙も五枚あった。

 失われた思い出の写真を何だったか、なぜアルバムから外したのか理由も行方も分からず。

しかし理由は忘れたが剥がした記憶だけがある。

 楽しい遠足の写真は既に当初の白黒が今は落ち葉色の薄茶になって時間の経過した長さを感じさせる。

写真はみな同じくそんな色になっていた。
 
  丸山先生は子供達の後方にいて右手で帽子を取りいい笑顔の写真だ。

この遠足は小学校の近郊の散策で特別だが珍しくはない。

普通だったはずだが思い出は深い。

 この遠足には鍋や食器を持って来て水筒に水を入れ、先生の指導で火を起こし枯柴をくべ、ラーメンを作った。

 みんながおいしいおいしいと言いながら食べた記憶がある。

この時の情景は写真より多くのことを思い出す。

 秋の刈り入れが終わった田圃には穏やかに西陽が射してクラスメートとの幸福な時間の中へ懐かしく浴びせている。

 カメラなど普段手にも出来ない時代の貴重な写真の一枚がここにあった。

丸山先生は笹冬の小学中学高校を通しても印象に残る素晴らしい先生だった。

 都会派の先生だった人は、宮沢賢治の〃雨にも負けず〃を全員の生徒に暗唱させていた。

東北の偉人が貧しさにまけず偉大な足跡を残した、これを詩によって伝えたかったのだろう。
 
  笹子とは川内、直根、百宅の村から構成されていた。

一番多きな村で都会とは矢島に近い川内だった。

 笹子は国道百八号線の行き止まりの地だった。

 後年笹冬は詩を書き寂れていく故郷を回顧した。

  ⒃ だれも間違っていなかった、しかし何   かが違っていた

松の木峠
標高560メートル 
鳥海の村人の悲願は江戸時代まで遡る
日本のありふれた寒村だが
由利本荘 矢島町地方と雄勝湯沢町を繋ぐ という国道の開通は
この地域の農家の究極の幹線道路となるはずだった

丁岳  水無  大平キャンプ場 野宅 丁荘 天神橋 中村橋 
笹子保育園 慈音寺 菊地旅館  月山神社  鳥海総合支所笹子出張所
JA山田 道の駅鳥海郷 
笹子赤館址  金子安部太郎城址  法体の滝 月山 
猿倉温泉 川内  矢島  丁川 笹子川 小吉川 直根 百宅
108道 57道 院内銀山 雄勝 湯沢等々

名所旧跡観光地とは言いがたいが
ありふれた田んぼにササニシキひとめぼれ秋田小町が踊る
秋の夕日に赤トンボが舞い1メートル先が見えない

川の水は名水何という物ではない
湧き水は全部飲料水 天然水に優る
地元の人は水の都お米のふるさとと言う

ブナの木を毎日切った それでも沢山残っていた
山菜も毎日採った  それでも草より多く毎日生えてきた
亡父の刃渡り90センチもあるのか
太い木を切るためかノコギリの刃から上端までも大きい
上端は緩やかな弧を描いていた80センチもあろうか 
そんなノコギリを思い出す

冬には激しく雪が降り 茅葺き屋根が見えなくなる
いちめんの雪がこの地域の農民を出稼ぎにかりたてる
春はふきのとう ネコヤナギ 堅雪と銀世界が現れる 
ここは夢の地だ


だれも間違っていなかった、しかし何かが違っていた

山あり谷あり聳え立つ崖を切り 埋めて斜面を削った幹線道路 夢の交通網

だれも間違っていなかった、しかし何かが違っていた

由利地方と雄勝地方を結ぶ物流の拠点の地笹子地区は希望の星が満天に輝く

だれも間違っていなかった、しかし何かが違っていた

出稼ぎからも貧困からもこれで解放される 道路は救世主になる  道路の神様は道祖神

だれも間違っていなかった、しかし何かが違っていた
                               
大企業が誘致され大学 総合病院 デパートの建設が津波のように押し寄せるに違いない 

だれも間違っていなかった、しかし何かが違っていた

過疎の町から子供若者の育つ快適な暮らしが其処に手も届く距離だ
稲穂の田んぼには金の瓦屋根がよく似合うだろう

だれも間違っていなかった、しかし何かが違っていた

将来この地の一角に東京ドーム2万個分に相当するダム建設が予定されている
鳥海山の水は涸れることがない 海水は象潟羽後本荘日本海の水がある
古代ローマ人が用水路を作って都市を完成させた 

平成の今日モグラシールドマシンで地中を掘り進めば工事もうまくいく 海水と鳥海山の自然水との融合 山の恵み 海の恵みこれらは八郎潟の再来になるだろう 過去の過ちを繰り返してはならない

ダム湖の完成の暁にはマス鮎を放流しよう ワカサギハゼ白魚年間3,000㌧の漁業資源の宝庫をこの地で復活させよう 善は急げ金のなる木はここに植えられた

だれも間違っていなかった、しかし何かが違っていた

この地はやがて大都市に成長する 新幹線 巨大な空港 陸奥最大の都市は約束されている 奥州藤原氏が見たらさぞ驚愕するのか 

だれも間違っていなかった、しかし何かが違っていた

私はこの村の長 中興の祖として1000年は顕彰されるであろう 
土木部長も加えてやろうか
藤原道長のこの世をばわが世とぞ思ふ この心地する

だれも間違っていなかった、しかし何かが違っていた

この土木工事は江戸時代から300年 地域住民の宿願だった 平成8年に竣工する

しかしこの切り通しの多い斜面の岩に院内銀山の銀が屏風襖の如く
夜陰に紛れ怪しく光るのに住民が気付く

だれも間違っていなかった、しかし何かが違っていた

誰が作ったこの道路 欲と見栄浪費破壊絶滅傲慢不遜  この地は中東のバビロンの再来になる槍剣で突き刺されないのが幸いだ 私は悲しみの箒でこの地を掃く、銀山の斜面はこう言った 

だれも間違っていなかった、しかし何かが違っていた

住民村役場共にこれはおかしいと気付く 頼みの本荘湯沢の商店が次々とシャッターを下ろしていく 

すると村の小学校 中学校 診療所 魚 衣服 文房具店 味噌醤油 米 油 塩 プロパンガス取扱店と ドライブイン ガソリン給油所 農協と見る見るうちに消えていった 
子供は生まれず若者は消えた 残った年寄りが雪下ろしのために死んだ こんな悪いニュースばかりだ

だれも間違っていなかった、しかし何かが違っていた

何かが狂っていた
壮大希有のテーマは何処に行った          おかしい こんなはずではなかった
村の墓地に木枯らしが吹き付ける今日この頃

道路は残り人は消えた
無人の道路にカマキリ トンボ カエル ヘビ コオロギ カジカ ウサギまで戻ってきた
動物 昆虫 爬虫類 川魚 植物 花この生態系が本来のこの地の有りようだった

だれも間違っていなかった、しかし何かが違っていた

誰が悔やみましょうか
歴史に悔恨など無い
歴史に過ちなど有ろうか
懺悔の値打ちが有るとしたら
これを顧みる勇気が無い 
このことのみだ

数々の失敗は来たるべき成功の妙薬
恐れず臆病にならぬ者だけが檜舞台で踊る特権が与えられよう
さあ 特効薬で
勇気のある人を讃えよう 
腰抜け臆病を嫌う
そんな風土ここに有り

町も寂れた
村も寂れた
孤高のこの山里こそ本来有るべき姿なのか

赤ちゃんもいない
嫁さんも来ない
残された老人と未婚の若者部落
この部落のセレモニーに〃無尽〃がある
村人が年2度集まる会食の儀式だが
村の豊作安全祈願縁結びの祈願も行う
厄払いも兼ねる

100年前1000年前3000,10000年前から先人は知っていた
江戸時代の人 縄文時代の祖先も弥生時代の先人もみな知っていた
働く我らに春よこい
冬に秋の農耕で疲れた体を休めよ
夏は乾いた大地に水を撒け
秋は収穫だ お祭りをして 
神社にお供え物せよ
盆踊り 秋祭り 正月 節分 桜の花見

このように縄文時代は一万八千年年も続いた
日本人は縄文時代弥生時代に帰れ  とは
今は言わないが
死んで白骨化してからでも遅すぎる事は無い

人々の思いと夢 希望 望郷
なにも変わらなかったが
世の中社会暮らしがいつの間にか変わっていた

だれも間違っていなかったが しかし何かが違っていた

  笹冬は詩をこう締めくくった。

 ⒃  ソフトボール大会

  あんな時代に鳥海村の学校の代表が一同に会するイベントにはソフトボール大会とキャンプファイヤーがあった。
 
  ソフトボール、あの時の鮮やかな場面を思い出す。.000000.

 川内のランナーが二塁から俊足で三塁盗塁に走った。

 すると笹子小のキャッチャーの高橋勝治君がピッチャーのボールをとった途端、矢のようなボールを三塁守の大場弥吉君に投げた。

 ボールは三塁ベースに盗塁したランナーの足下にドンピシャリのタイミングでアウトにしたのだった。

 ショートの守備についていた笹冬はこのアウトを見て試合は勝てる,優勝できると思った。
 
 後年他の試合の出来事はみな忘れたがこの場面は五十年以上後も思い出す。
 
  その試合は笹子小対川内の決勝戦だった。
敵のホーグランドでの試合は今日だ。鳥海の子供達がソフトボールの選手として集った。

 川内、笹子、直根、百宅の4校代表が勢揃いしている。

 笹子の子供達は川内を見るとなんとしてでも川内にだけは負けたくない,沈黙の闘士をかき立てた。
 
  川内の伏見町と呼ばれる場所は、山奥の行き止まりの地笹子に比べると都会だった。

笹子で治らない病気はこの伏見町の診療所まで来ていた。

 大都会の矢島に最も近い川内は魚屋も八百屋も呉服や文房具店雑貨屋と商店が道の両側に軒を連ねていた。

 川内の子供の家は裕福でおいしいものを毎日食べ、着たことのないような洋服や着物を買ってもらっているに違いない。

  移動中のバスの中で誰かが、川内の子供は毎日お小遣いを貰うそうだ。

なんでも好きな物を毎日買うそうだ。店に行かない日はないそうだ。

 それを聞いた子は、ええーっ  そんなことあるのか。

それでは毎日お盆とお正月が来ているようだよ。           

 笹子ではお菓子屋は二軒有るがキャラメルや砂糖入りの駄菓子を置いているだけだ。

 殆どの子供は親からお金をもらい買い物などしたことがない。
 
  裕福な川内に負けるものか、いやが上にも対抗心に火がつく。

こんな気持ちで試合に臨んだのである。

 日頃の校庭での練習に竹内先生と言う聞き慣れない名字を持つ笹子小の先生が指導していた。
 
  練習の時初めてソフトボールに多くのルールがある、これを知ることになる。それを試合のセーフとアウトの判定に使う。子供達は驚きを一つずつ多くの経験する。

 なぜ一塁ベースはオレンジと白の二色なんだろうか、そしてフェアゾーンとファルゾーンの白線の上に置かれているのか。

 選手に選ばれたある子は紅白だから試合の無事とお祝いの印だと思う、こう言った。

 いいや一塁はアウトセーフが際どい、怪我をしないように大きくベースを作りランナーはオレンジをを踏む。

 一塁手は白を踏めばお互いの足の交差をなくせる。

こうめいめい意見を述べる。
 
  バッターランナーは内野ゴロ等ではオレンジベースを踏む。

 このとき白ベースを踏むとただの通過とみなされ踏んだことにならないケースがある。

ややこしい。
 
  ダブルベースといい二色のベースがくっついている。オレンジと白だ。

 この色の境は白がファア区域、オレンジがファル区域に置かれる。

不思議不可思議に子供達は首をかしげる

 これは守備と走者が接触し怪我をしないような工夫がある。

しかし外野などに飛んだ場合はどちらを踏んでもいい。

 ややこしい、ライトゴロの時一塁アウトが起きることがあるので、ライトの正面にボールが飛んだときはオレンジベースの方を踏む。

 ライトゴロでアウトを避けるため白ベースのオーバーランをしない狙いがある。

こうもややこしい。

 ファーストがエラーした場合ボールール側に転がった場合ですが、このときは内野のプレーだとしても白ベースオレンジベースの両方どちらを踏んでも良い。

 やはりややこしい。

要は守備走塁に危険を避ける行為であればどちらを分でも良い。

このルールは1994年から正式に採用される。
 
  走塁にも野球とは大きな違いがある。

ピッチャーが投げてから塁を離れる。

ソフトボールには周りに円を描くように白線が引かれている。

 ピッチャーサークルがあり、ピッチャーがボールを持った状態でピッチャーサークルに入ったならすぐに自分のベースに戻らなければならない。

 これはピッチャー自身がボールを持っていると時のみの適用だ。

 ややこしい。ピッチャーサークルに入ったら、次の一球を投げるまではプレーが一旦止まると言うことになる。
 
  スポーツ、ソフトボールにこんなにも細かいルールが海の砂粒ぐらい多くあるのか、これじゃあ算2数国語の方がもっと易しい。

そう言ったひとは勝治君だった。
 
  この試合の笹冬は一人絶不調だった。三振とエラーばかりで良いプレイの記憶が少しもない。
 

 ⒄ キャンプファイヤーフォークダンス

  〃マイム  マイム  マイム  マイム
  マイム  ベッサッソン
 
 長畑の定時制高校が運動会に来て踊ったダ ンスです  憧れの音楽
 
 ヘイ  ヘイ  ヘイ  ヘイ!
  マイム  マイム  マイム  マイム  マイム  ベッサッソン〃
 
 長畑の定時制高校が運動会に来て踊ったダ ンスです  憧れの音楽
  
  「さばくの  まん中  笹小のグランド
 ふしぎなはなし
  みんなが集まる  山菜の夜月の雫」

夜空の星光り月も出て
キャンプファイヤーの火が燃える
鳥海の子供達 
笹子小学校のグランドで
手を取り合い 大きな輪になり 
横に円を描き 
前に花が萎むように
両手を上げる
 

つないでいた両手を
左右の友の後ろにまわし
後退していくと
再び大輪の花が開き
元の大きな輪になり踊る

  笹冬は小学校の夜の校舎を初めて見た。古い木造の歳月を経た木の色の壁板は総横框の作りだった。
 
  笹子小学校には川内直根百宅の子供達も来ていてそれはみな楽しくうれしい夜のイベントだった。

  年一度の交流会、今年はキャンプファイヤーの中のフォークダンスだった。

 ところが笹冬は音楽と踊りが大の苦手で低学年の時学芸会のカスタネットを曲に会わせて叩けなくて、役目を辞退したことがある。
 
  『なあにーその顔、笑顔で踊って、そうでないと周りの女の子に悪いでしょー』
 
  四苦八苦のフォークダンスをしている笹冬のところに割って入ってきたのは三浦桜子だった。

 笹冬の手を取って二人は仲良く踊り始めた。
 
  スピーカーからの音楽が止まるとアナウンスがあった。

 これから少し時間をいただいて丸山先生と菊池桃子先生が社交ダンスを披露しますので、椅子に掛けてお待ちください。

 こう言っているとお二人が登場した。淑子先生とは小学校の音楽の先生である。

 星と月とキャンプファイヤーの火に照らされた桃子先生は別人だった。

 みな固唾をのんだ。

真紅の口紅に濃い紫のアイシャドー。

ダンスの衣装はスポブラを身につけていた。

 お臍も丸いのが見えた、後ろの背中は白い滑らかな光沢を塗った様に輝く。

肩の曲線が美しい。

もう丸見えミロのビーナス大理石の光沢同然だ。

 下半身はハワイの娘の様に思い切り薄い布で腰を包む、くびれが衣裳を破らんばかりに薄い赤で巻いている。

 お尻も一枚布で巻いている、ほぐれたり落ちたりしたらどうなるんだろうか、みんながはらはらどきどきしている。太腿はムンムンお色気を発散した露出美人だ。
 
  タンゴの曲が流れている。
 
 そして突然、

コントラチェック〃

と丸山先生の掛け声が飛んだ。

  キャアーと、観客になった女の子は悲鳴を上げた。

 すると桃子先生のそれまで自由に動き回っていた体が一瞬止り右足を一歩後退させつま先で全体重を支え、弓のように体を反り返させしならせた。左足は真っ直ぐ前に放り投げ体は開脚に合わせて開いた。

 彼女は目を閉じ唇を半開きにし顔を夜空に向けた。

速くの世界に私を連れて行きましょう、あなたは自由に追い込み捕らえて下さい。

私は森の獣です。思う存分調理して賞味して楽しんで下さい。

私にも夢を分けて下さい、そう言っているかのようだ。
 
  女の子の歓声と悲鳴は夜空に篝火の様に燃えていた。

その夜も更けてみんな体育館で寝ていたがあの時のタンゴが忘れられない。

 大人になったら僕もやる。

速く来い来いお正月と大人に成る日が。

 ⒅ スキー

  冬の恒例行事は学校のスキー大会だった。
ある日友達の赤川静司君が講師の佐藤先生は大回転の部で日本一になり優勝した人だよ。

この笹子にスキー場などないのに。

 ゲレンデもリフトも夢のまた夢、あるのは雪の中から顔を出す雑木林と何の変哲もない山並みが続くのみ。

 村の歴史始まって以来の快挙、今風に言うなら村民栄誉賞に匹敵する。

 そのころのスキーというのは金具をつけ長靴をバンドで固く縛ったものだった。

 その為転倒した子供の靴が外れず足を骨折する事故が多発した。
 
  『うちは貧しくてとてもスキーを買えません、それに父母共にスキーで足を折ったら入院するお金もない。

こう言われています』
 

 笹冬は体育の佐藤和栄という教師にそうった。いつも無理難題を生徒に突きつける嫌な男だった。

 すると、スキー板は人から借りろ、怪我した人は一人もいない。

スキーで怪我しろとは指導していないからだ。

 昨年の秋に村長と村議会が村長の住む長畑の山の斜面を伐採し頂上から麓にスキーコースを作る工事の予算を可決した。

 今度の冬は工事の終わったスキー場の完成祝いの趣旨がある。

 そのお祝いに男子生徒は全員滑走します、と校長が約束している。

 だから滑ってくれない生徒がいると学校は困ってしまうんだよ。

こんな具合だ。

教師には生徒の夢と希望を引きちぎる奴がいる。
 
  スキー大会当日の大回転は三百メートルもあろうか、細い斜面が所々ある。

コースを外れ転倒しないように滑走してきた笹冬を下のゴールで迎えてくれた女の子のクラスメートが四人いた。

 その中に天神のキサ子さんがいた。

あの出迎えの笑顔を忘れられない。

 スキーの嫌いな笹冬をよく知っていたサキ子さんはじっと友達と笹冬が滑ってくるのを待っていたのだ。

 みんなのホッとした喜びの顔には本当に驚きだった。

自分を心配してくれていたんだと滑りを振り返り思った。

手を叩いて迎えてくれた。

  ⒆ お盆

 一年の中で子供に楽しいのは八月のお盆、それに続く九月のお祭りだった。

 お盆には屋敷に植えている小粒の盆花を切り赤飯とお菓子、酒と水を添えて先祖の待つ墓に行き慰霊するのが常だった。

 村の日当たりの良いまた見晴らしも良い地に二〇墓も有ったろうか。

墓は新しくになっても増えたりはしない。

 古くて文字も読めないもの、柔らかい石のせいか、歳月のためか空気と接触し溶けているような墓石もある。

 先祖の供養と感謝のための墓参りは子供心にも祖先の歴史と農地を切り開き生涯を終えただろうと労苦を偲ばれる。

 盆花の紫の花を切り赤飯やお菓子お酒ジュース果物と様々な食べ物を用意し、年一度だけのお盆を迎える。

今年もやってきた、時の経つ早さを感じる。
 
  町と呼ばれている所に神社と狭い境内が有り、裸電球五,六個下げてスピーカーの音量を上げて踊りのための音楽を流す。

 町の周辺の子供と大人が浴衣で踊る。

大人は編み笠で顔を覆う。

 また大人は黒の帯の布を顔に覆いひこさ頭巾と呼ばれる物を身につける。

この鳥海は松の木峠を越えると秋田県雄勝郡羽後町西馬音内がある。

 西馬音内の盆踊りは一日市の盆踊と合わせて秋田県三大盆踊りである。

 盆踊が亡者の踊りといわれるゆえんはこの黒い頭巾と編み笠の故、まるで大きなスイカを六分の一位に切った断面の形にも,月没の上弦の月にも似ている。踊りにしか使わない奇妙な笠だが不吉なことはない。

 毎年見続けてきた者には不気味さはない。

先祖がうれしくて遊びに来て物言わず踊っている、こう考え受け止めれば先祖の霊を慰める事になる。
 
 自分を知るために先祖の足跡を辿らんとしても資料という壁に当たる。

教職を定年になった兄の琴房がこれらを調べていた。

 お祭りは稲の収穫を間近に控えた御祝いで、夜店など並び賑やかだったのを思い出す。

静かな町の通りがこの三日間だけは賑やかになる。

田舎のサンバかカーニバルのように心が嬉しく弾む。。

  ⒇ 父、富蔵の系譜

  富蔵の父は亀松
1884年 明治17年3月4日生まれ 
1949年 昭和24年2月12日死去
 
 亀松の妻はアキノ
1889年  明治22年12月7日生まれ  1942年 昭和17年12月6日死去
 
 亀松の父は三四郎という。
1851年 嘉永4年5月19日生まれ 
1920年 9月7日死去

 三四郎の父は菊地佐四郎と言い、
婿養子で原田家に来たらしい 

 三四郎の妻はケサ
1863年 文久3年11月13日生まれ 
1924年 9月2日死去

 ケサの父は長作
1832年 天保3年12月6日生まれ 
      没年不明
 
長作の妻はウネ 出自は不明
 
  古い墓誌にはっきり書かれていたのを生前富蔵が整理し、長男の琴房に後を託した。

 最大の謎の人は戒名の文字、嶺桃芳春居士と言う堂々として四季を感じさせる名。天明四年三月三日と書かれた碑文だった。(天明4年は西暦1784年に当たる)
 
  この人が始祖なのか、建立者の記録がない。この人につながる物が残っていない。

不明だが墓石に刻まれた名前の文字だけが残る。もう資料がなく遡れないが、この人を囲む人達がいたはずだ。
 
  富蔵の代まで本家がサンツケ、スケジャン(助左右衛門)の屋号で呼ばれていたのを笹冬が聞いた覚えがある。

富蔵は亀松の三男、九人の兄弟姉妹がいた。

 富蔵から四代遡ったとき、意外にも写真が遺影として残されていたのは驚きだった。 

 若くして戦死した五四三と先祖を偲び笹冬は後年、このように詩を創る。

  ㉑ 私は生きる 1

大地に雹が降り刺草は死なず
雪国の屋根のトタンはボロボロ 
氷点下 台所に雪が積もっていた 
私は生きる

幼少のとある日 火事が起きた
火事で亡くなった人の家を50年ぶりに 
お盆に偲ぶ 
その遺影は少年だった 
私は生きる

理不尽と因習 
あらゆる不幸な村 
町ともに寂れた
栗を拾い売り生計を立てた 
終の棲家 今はなし
私は生きる

高校進学が珍しく 
また世間に罵られたと
父の述懐を思い出す 
農家を継ぐ者がなく 
我が家は取り壊され
田と畑だけが土地に残った 
私は生きる

いいことは うれしいことは
夏稲穂が実り 八月のお盆の頃 
秋風と蜻蛉が訪れる
縄文時代もこんな世界か 
私は生きる

郷里の兄が究極の祖先を探す
嶺桃芳春 天明四年徳川家治・家斉の頃 
236年前没す
私は生きる

キーツ イェイツ シェイクスピア
イギリス名詩選 読めど 
980円の価値なし
古典に躊躇う 
私は生きる

昭和万葉集を読んだ
昭和の万華鏡だった 
それは戦争の歴史だった
戦争に正しい答えなどない 
私は生きる

親も死んだ 愛犬も亡くした
同級生にも死んだ人が出ている 
本当なのか
信じられないが
いつもみんなが私のそばにいる 
私は生きる

父の兄弟は九人 一番末の弟が
フィリピンのラグナ湖の南 
バナハウ山で戦死
五四三(ごしぞう)は享年二四歳 
私は生きる


二〇世紀は映像の世紀という 
明治以降の二度の世界大戦と
他地域戦争、紛争による世界の死者
7466万一千人と数えた
しかし統計から漏れた民間人
粛正による犠牲者をいれれば
この2倍か 
私は生きる

人 人類 
部落市町村区郡府県 国家共同体
いつ何処で何に生まれたよかったのか
選べない
それでも 私は生きる

アジア アフリカ ヨーロッパ 
東南アジア 西アジア
中東 西南アジア 
アメリカ 南アメリカ  南極
住むに適した地はない 
楽園を選べない
それでも 私は生きる

大統領 首相 総書記 
大佐 市町村長県知事 各種議員
私は人を選べない
みないらないね
私は生きる

この世は大きな嘘との戦いである
大きな嘘は真実 真実は巨大な嘘
摩訶不思議だが 
私は生きる

敬虔な心情 信仰を乱すべきでない
何者 何物がこうつぶやいた
それもそうだと思う 
なにはともあれ 
私は生きる

あるサイトに生きている限り書く         
そういう人がいた 
それはいいが
礼節がなければ獣の駄文にすぎず 
私は生きる

恩ある人は二〇人を超えていた
その時々にした仕事を思い出す 
恩返し 何一つ出来ず
悔いと積年の憂いあり 
そう言いつつ 私は生きる

               
 ㉒ 私は生きる  2

二〇世紀は映像の世紀という
明治以降の二度の世界大戦と
他戦争による世界の死者
7466万一千人と私は数えた 
それでも 私は生きる

アジア アフリカ ヨーロッパ 東南アジア西アジア
中東 西南アジア アメリカ 北極 南アメリカ
住むに適した地はない 

それでも 私は生きる

大統領 首相 総書記 大佐 市町村長県知事 各種議員
みないらないね

私は生きる

神の過ち 仏の過ちと言えば気分を害する人がいる
しかし 過ちは正すためにのみある  
空手形に勇気を持ってこう私は言う 

私は生きる

イスラエルは地中海死海に沈むのか
イスラエルは人跡未踏の原野になるのか
私は知らない 私は生きる

この世は大きな嘘との戦いである
大きな嘘は真実 真実は巨大な嘘
摩訶不思議だが 私は生きる

敬虔な心情 信仰を乱すべきでない
何者 何物がこうつぶやいた
それもそうだと思う 
なにはともあれ 私は生きる

あるサイトに生きている限り書く         
そういう人がいた それはいいが
礼節がなければ獣の駄文にすぎず 
私は生きる

恩ある人は二〇人を超えていた
その時々にした仕事を思い出す 
恩返し 何一つ出来ず
悔いと積年の憂いあり 

そう言いつつも 私は生きる

 
 ㉓ 鳥海の思い出す事

  笹冬の幼年期の頃も中学生の時も川は綺麗で生き物が沢山いた。

カジカ、鰌、ヤマメ、カニもいて川の石を持ち上げると沢山生息していた。

 春はチョウチョウ、夏はオニヤンマ、秋風の穏やかな収穫前の田園の夕方は赤とんぼで空が真っ黒になった。

 春は子供でも蕨ゼンマイを野山に採りに行って遊んだ。山葡萄も通草も栗も思いのまま取ることが出来た。

この頃の笹冬は最も豊かで代えがたい自然の中で過ごすことになる。
 
  恵まれた自然の中でその実りに感謝するのがお祭りだった。盆踊りとはうって変わり神社の前に大きなステージを作り、国定忠治清水の次郎長などの仁義物に拍手をしていた。

実に人間臭い催し物だ。

 電球の明かりをがんがん照らし、スピーカの音量も楽しそうにボリュームを上げていた。一つ金は一千円也、と。

 ああまたまた〃一つ金は一千円也〃と寄付金をしてくれた人の名前を呼ぶ、佐藤長治郎様岡野金治様などと、御礼(おんれい)申し上げますと大声で締めくくる。
 
  普段は子供の通学と村民が魚を買いにくる道路が、村民しかいないは笹子にどこから来たのか見たことのない大人が大勢いた。

 インチキや怪しげな商売をしていて、その店の前には人と人の行列で身動きがとれないぐらい混雑している。

 道の両側にはテントや屋根を張った金魚店やオモチャやそして綿菓子や雑貨屋お菓子屋があった。

 年一度の晴れ舞台のように町の空気が変わる。祭りの太鼓も笛も歓声も遠くまで響き渡り夜空の星が月が瞬く。
 

  ㉔ 正月

  お正月は家庭内のお祝いだが幼年の頃はこの鳥海に不思議な風習が残っていた。

それとも盆礼のお正月版で一般的な挨拶だったのか。

 最も近い親戚の家にそれも大雪の頃" 正月礼”と称しお菓子とスルメ昆布を風呂敷に包み挨拶回りをする。挨拶を受けた家は同じようにその人の家に来て返礼の訪問をする。

 親戚が多いとお祝いのお酒で大人は酔い潰れてしまう。

今ではいつからともなくこの習慣はなくなってしまった。
 
 笹冬の母は正月には何時も古いが天照大神が真ん中に立ち、左右に鹿に乗った老人の掛け軸を取りだし掛けていた。

 真ん中の左右にはそれぞれ春日大社八幡神社と縦の文字で堂々と書いてあるお正月用の掛け軸だった。
 
  お正月には搗いていた餅を小豆のスープに入れたり納豆餅にして食べる。

また滅多に魚など普段はないのに、年越しとお正月は鱈のお吸い物も畑でとれた葱を入れて食べた。

 お正月は何とも言いようのない格別な味がする。

魚の骨を見るなんて何日ぶりか、お正月ならではだ。
 

  ㉕  中学時代  1

  文化祭の時だろうか。

芥川龍之介作の″三つの宝”という劇をしたことがある。

王子様役には大友春子さんにお願いした。

 お姫様は三浦桜子だった。

あらすじは三つの宝を廻る物語だが、笹冬は監督の係をやっていたら劇の台詞をみな覚えた。

それは自分自身の自信につながった。   
 
  今思えば中学の三年間はさまざまだことがあったのだろう。

小学校の仙台から東京への修学旅行の白黒に印刷されたアルバムがそれを語る。

 二重橋皇居、羽田空港日光東照宮での集合写真が残る。写真はないが日本橋三越デパートにも行き、また日比谷の日劇にも行って踊りを見た。

 修学旅行の感想文で天神の小沼ミツ子さんが、足を上げて踊っていた。

そう表現していた作文の得意な人の印象が今に残る。

 宿泊は文京区の本郷だった。

この古い旅館での自動販売機で買ったコーラを初めて飲んだ時の味は薬のようで忘れられない。 


  ㉖ 中学生時代2

 もう一度生まれ変わらなければ神を見る事も天国に入る事も出来ない、こう教えるは聖書の中の話し。

中学の年齢というのはこれに似ている。

 小学生の頃より遙かに視野が広まる、自分の言ったことも人の話しをも良く理解できる、本も小説も多く読む、ラジオの音楽を聴いて歌う、ああ良いなと好みの物を選択出来るようになる。   
 
 好き嫌いがはっきりする。

身近な天地もありふれた山も川も田園風景も昨日と何一つ変わっていないが、子供達の物を見る目が大きく変わり成長している。  
 
  小学生時代の成績劣等生は中学三年生の時は生徒会長に選ばれていた。

また中学二年の時は佐藤美代子、小沼哲朗は笹冬の父の妹の子供達でいとこ。

笹冬にはミワとイエの親しくお世話になる叔母の二人がいた

 ミワの子どもが生徒会長、イエの子供は副会長を占めると言う快挙まで成し遂げた。

そして加えて富蔵の笹冬も選ばれていた。

これには親戚もビックリした。
 
  中学生の笹冬にはグループ班長とか学習委員長とか学級委員長など数えたら十を超えていた。

そんな中での思い出は中学二年生の時のブラスバンドが創設されたときのこと。

 今まで教科書でしか見たことがないトランぺット、トロンボーン、チューバ、クラリネット、太鼓、シンバルとみなキラキラ金色に光り揃っていた。

 笹冬はクラリネットに落ち着いた。

みな自分に適する楽器を探し希望も入れて音楽の先生に相談していた。

みんなが楽器を手に息をいっぱい吹きこみ音が出たときは笑顔だった。
 
  " 士官候補生" この歌は五〇年以上経ても覚えている。驚きだ。

 運動会に登場しチョウチョウを演奏するが不慣れ故少し音楽は崩れていた。

みなそのことを分かっていて演奏後苦笑いをした。 
 
  冬には力も強くなった子供達は雪像の城、潜水艦など体育の時間に作って楽しんだ。

 また相撲大会が学校の行事としてあった。神社の前や校舎の土俵で競技をした。

笹冬はこの両方の大会の三人抜きで優勝した。

 キサ子さんも桜子もこれには驚いた顔をしていた。

中学生というのは何もかもが急がしくなった。

 みんながそうだ、顔の表情もあの幼さからはっきりしてたくましくなり、かしこくもなる。豊かになった表情が明るい未来と希望を将来の夢を感じさせる。
 
  中学を卒業して世に出て大成し成功を収めた同級生はいるのだろうか、かつてあの卒業式以後は一度もあっていない友もいる。

 旧いアルバムを見つつ懐かしんで詩を作る。                          
 


  1部 古いアルバムは滲んでいるが 今は何とも言えぬ手触りがする

親戚の富雄さん 快活だった

親戚の晶和さん 平の沢の人  物事を静かに考える人だった

親戚の広助さん 小柄でおとなしかった

親戚の辰和さん 地元で農業をしていた 村でエレキギターを最初に買った人か

親戚の安雄さん 卒業後良く会いに来てくれた

親戚の秀雄さん 小さい笛を吹いていた

親戚の米一さん 小6の時 雨にも負けずをみんなの前で 私と二人で朗読した

親戚の清栄さん 小柄で優しく人を見つめるタイプだった

親戚の三津男さん ソフトボールでベースランニングが得意だった

親戚の武男さん 良くお菓子を分けてくれた.
通草をとりに山へ行った

親戚の勝彦さん よく自分に話しかけた 船員になる学校に行った

親戚の輝男さん 数学が得意だった 家はお菓子を売っていた 

親戚の繁夫さん 生徒会会長に立候補したら手伝ってくれた 近い人だった

亡くなったという勝治さん ソフトボールのこと 塗装工のこと 命を絶ったとの話
話と思い出は尽きない かつての日々常にあなたがいた

作者の私よしは みなを思い出す

親戚の隆さん お化けの話が好きだった

親戚の二三男さん 良く覚えていない

親戚のシゲ子さん 町の魚屋さん 勉強が出来て快活だった

親戚のハツヨさん 小柄な人だった いた

親戚のみえさん 快活でスポーツが得意だった

親戚の香さん 背が高く成人式では大人びていた

親戚の淑子さん 地元の旅館屋だった とても気品のある顔にそして笑顔が心に残る

親戚のハマさん 小学の時 お化粧をした最初の人でした

親戚のエミ子さん どうしても思い出せません 大凹とはどこか

親戚の喜久美さん 小柄でした

親戚のキサ子さん 大柄でした学校の帰り好く合いました

親戚の惠子さん どうしても思い出せません馬場の人

親戚のヒデ子さん 小さくてとく動いてました

親戚の智子さん どうしても思い出せません下ノ宮の人
      
親戚の仁子さん 高校の時山奥のあなたの家に米一さんとバイクで遊びに行った夏は愉しかった

親戚の洋子さん 目がくりくりしてました

親戚の文子さん 私とおなじ村の人

親戚の道子さん  お父さんは村長 とても丁寧な人でした

親戚の良子さん どうしても思い出せません 瀬目の人

  親戚のサトさん 習字の墨で衣服を汚してしまいました ゴメンネ

親戚の静子さん 高校のお盆キサ子さんと家に遊びに行きました 楽しかった

 2部 古いアルバムは 何かを話しかけて来るようだ

親戚の静司さん 最も私の近くにいた人 快活で色んな事を教えてくれた

親戚の好男さん 小柄な人でした

親戚の弥吉さん ソフトボールでサード 僕はショート 丁寧な個性が心に残る

親戚の正弘さん 思い出せない 橇連とはどこか 今も分からない

親戚の光治さん 小柄な人でした

親戚の久一さん 会話能力のある人 卒業後遊びに行きました

親戚の建二さん思い出せない

親戚の秋由さん 喧嘩したら上着をおいて帰ってしまった
それを真夜中に届けに行ったら綺麗なパジャマを着て出てきた

親戚の重男さん  何か言いたそうに横目で人を見つめる人だった

親戚の雅春さん 自分にクラシックギターを最初に見せてくれた人

親戚の久円さん 小回りのきく人だった

親戚の務さん 背が大きく父親は土木業村会議員で度々学校の祝辞の挨拶をしていた

親戚の久和さん 心に残るいい人でした

親戚の清孝さん ソフトボールで私をキャプテン キャプテンと言っていた いい人

親戚の隆雄さん 素朴な人

親戚の正行さん 目立たない静かな人

親戚の智恵美さん 名前を呼んだことがあるが思い出せない

親戚のハル子さん 高校を卒業する三月バスで会った。電話交換手になりますと言っていた。

親戚のノリ子さん思い出せない

親戚のキク子さん  成人式の二次会の会場で笹冬の隣で社員に映っていた。大人びていてとても良かった。

親戚の洋子さん 目のくりくりしている人、卒業後何かの同級会で会ったような気がする。

親戚の八重子さん スポーツが得意 長畑の直子さんといつも一緒だった

親戚の照子さん  名前は知っている 小柄なあの人と思う

親戚のマツミ全く思い出せない

親戚の泰子さん 学校の交通弁論大会で 私達は国民の花 と言ったのが印象に残る

親戚の修子さん 顔も覚えているが 余り話す機会が無かった

親戚の洋子さん この名前は二人いる
あの人なのかと思うが記憶が朧だ

親戚のスミ子さん 同じ村の人 バレーボールのアタッカーだった

親戚の長子さん 思い出せないが町のお菓子屋さんだったと思う

親戚のハナ子  天神の方から来ていた良く道の側の我が家の前を帰校する姿があった

親戚の幸子  確か農協の職員だった同じグループで机を合わせて勉強した

親戚のトエ子さん 同じ村の人 いち早くテレビを買った家でした

親戚の邦子さん 金歯が光るときがあった

親戚の直子さん 八重子さんの仲良し色白でチョット大人ぽい

親戚のとよ子さん 同じ村だが話す機会はなかった

親戚の祐子さん 思い出せない下笹子の人

 3部 古いアルバムは 私の知らなかったことを思い出させる


親戚の春生さん 温和しい人

親戚の健夫さん 温和しい人

親戚の定美さん 地元の定時制の帰り見た 丁寧な人だった

親戚の秀栄さん 記憶にないが名前は聞いた

親戚の照雄さん 父が照國のファンで照雄になった こう言っていた

親戚の政男さん 思い出せない

親戚の清和 名前顔も覚えているが話した記憶が無い

親戚の勇さん 中学のお別れ会で ブルーシャドーを歌った

親戚の太喜男さん 同じ村の人 多くの思い出がある

親戚の儀明さん 中学で就職したがその後が気になる いい人だった

親戚の了さん 賢そうな人でした

親戚の則男さん 良く覚えていない

亡くなったという秋男さん 小柄で良く動き話す人だった 家の前を大型ダンプが砂利を運んでいたその運転手は彼だった  平成間近という
 

親戚の良春さん 本家の親戚 大型トラックを名古屋から持ってきたことがあった

親戚の光栄さん ピカピカのスキーを買っていた

親戚の三津男さん 勉強が出来て丁寧な人でした

親戚のチエ子さん  覚えていない

親戚の由美子さん  覚えていない

親戚のトミ子さん 覚えていない

親戚のハル子さん 三つの宝芥川龍之介作 の王子様役でした 楽しい思い出ありがとう


いつもいつも通る夜汽車

私の夜汽車は 鼠ヶ関
昔 鼠が終点で降りていると思った

私の夜汽車は 学校に行く山道
山葡萄 通草をとって食べていた
冬3月は堅雪の朝 雪の上を歩いた

私の夜汽車はメランコリー
メランコリー メランコリーと
座って歌っていた

私の夜汽車は 三つの宝
中学の時の童話の劇
王子様は女の子が演じた

私の夜汽車は
遠い町を教えている
遠い昔を教えている

私の夜汽車は言葉だろう
神秘的な意味 力は無いが
言葉は励ましを与えてくれる
 
お別れと終わり それも続き
親戚の奈美子さん 今でも顔の表情を思い出します 近くにいた人です

親戚の知津子さん 思い出せない

親戚の精子さん 私は米一さんが好きです と告白一号の栄誉に輝く

親戚のミツ子思い出せない

親戚のミネ子思い出せない

親戚のチエ子思い出せない

親戚の寿美子さん 名前を覚えているが顔を思い出せない  天神の人か

親戚のヒサ子さん  思い出せない

親戚の泰子さん 思い出せない

親戚のレツさん 思い出せない

親戚のよし子さん 無口名な人だった 我が家の隣に嫁に来ていた

親戚のさよ子さん 思い出せない

親戚の久美子さん 顔も声もその姿も覚えている 森の熊さんだった

親戚のヨリ子さん 思い出せない

親戚の令子さん この漢字を見るとあの令子さんでないのかと思う
小中と一番顔を合わせ話をしている 
今は神奈川三崎でどうしてますか

  この様に記す。

 時は高度成長時代の真っただ中、教師は言う。君たちは金の卵と呼ばれている。高校に行かなくて集団就職し、頑張って社長になった人はたくさんいる。

 これをきんのたまごというんだ。

要は人手不足のため就職してわが社に入社して欲しいという会社・企業が我が笹中にもたくさん来ているんだ。

担任の声は熱を帯びている。

 一〇九人の卒業生で普通高校に進学は五人ぐらいだった。

昭和四〇年の三月のことだ。他は地元の農業定時制高校に、十人ぐらいで家業の農業を継ぐ。

残りはほとんどが県外の集団就職の人だった。

二十人ぐらいを除きみな都会に行った。

北海道の農家のお手伝いは姉の智子が行ったことを思い出す。

見知らぬ土地で労苦があったと今になって思う。
                                
 他界したというの真貴子さん。なぜか高校卒業後か町で出会った時に、遊びに来て下さいと地元の言葉で話していた。笑顔を思い出されるもののとても寂しそうだった。 

 中学の同級生は一〇九人だった。小学校の時二人が転校していった位だから小・中学と九年間顔会わせて勉強した仲間でもある。
 
 偶然とはいえこのような寒村にお互い生まれたからみなに対する思い出が深い。

都会ではあり得ないだろう。
 
  みな同級生との思い出は体育祭、学芸会、文化祭、クラブ活動、修学旅行と楽しい日々はあの校舎の外壁の板が横に重なり並ぶ横框工法の板の連続のようだ。旧くて頑丈、いつまでも朽ちることがない。