日は沈んでも朝日の昇るときは来る 1

   

(写)夕日は沈んでも         
   朝日が昇る時は来る  21,1,20
                             

 

(1) 村の診療所

  「お子さんのこれ、左腕どうしましたか?
膨れ上がっていますね」
  「肘から上腕部にかけて、こんなにも」
 

 笹冬の母が診療所の女医に言われたのは一
週間前かそのぐらいだったと思う。
 

(2)金子の主人の大けが
 
 昨年冬に笹冬の母の主人は姥井戸の山で冬の木の切り出しをしていた。
しかしスチールロープ用のウインチのワイヤーロープが切れてしまった。


 そして右足にそのロープが直撃し、瀕死の重傷を負い入院している。
 
(3)長男の琴房の病気

  又笹冬の母の長男の琴房は生来病弱で、祖の地域で呼ばれている腹病みという内臓の疾患で西馬音内の片岡医院に入退院を繰り返している。
 
(4)家族に次々災難が来る

 その日診療所を後にして、母の金子はため息をついた。
我が家は病人だらけだ。
今度は一番年下のこの子の肘の上がこんなにも膨れてしまった。
ネコに引っ掻かれ手の傷から黴菌が入った。上腕部の裏側を切って膿みを出す切開をしなければ枯れ木のように腐ると言われた。
 

(5)母の金子は途方に暮れた
 
 もう家に帰ってもお金も明日食べるお米もない。


(6)遠縁の七郎さんしか頼れる人がいない

 こうなったら再び中台の村にいる遠縁の友人七郎さんに頼むしかない。
こう思いを決めた笹冬の母の金子は子供の手を握り帰り道を急いだ。

 
(7)そうか、黴菌か
 
 「そうか、手の傷から黴菌が入った?
猫に引っ掻かれたって、仕方がないなあ」
 
  下笹子の中台の七郎さんはいつものようにニコニコ笑いがら話した。
そして、金子にお金の工面をしてくれることを承諾してくれたのだった。
 

(8)長男には無理をさせた後悔がある

 長男の琴房には学級費のお金を得るため朝早く栗拾いをさせた。
朝露に濡れた牛の草も背負わせた。
貧しいこともあったが、病弱に拍車をかけてしまった。
 
 
(9)笹髙原に嫁いだが好いことがない 

 金子はこの貧しさと、主人と長男のことを考えると心が暗くなった。
今度は、笹冬の腕の膿も取り出さないと腕が腐りなくなると診療所に言われた。


(10)我が家の終生忘れられない大恩人だ    った

 次から次へと病人が増える。
中台の七郎さんは大恩人だ。
困ったときはいつでも笑いながら引き受けて助けてくれる。金子はホッとしながら家に着いたのだった。
 

(11)祖母の幸江

 笹冬の母金子は山毛欅渕というところからいまの笹冬の父の富蔵のところに嫁いできた人だった。
 
 金子の母で笹冬の祖母は度々金子を訪ねて、トボトボ杖を突いて腰を曲げ、歩いて家に遊びに来た。
バスもタクシーも車もない時代のことである。朝出かけても老人の四時間もかかるのか。
 
  笹冬はこの年老いて腰を曲げ、杖を突いて大汗をかきながらやって来る優しい祖母が大好きだった。
ん婆ば、ん婆と言っていつも出迎えていた。

 
(12)〃ん婆えぐきたな〃
「ん婆、えぐきたな」
 
 こんな風に母が笹冬に挨拶する様によく言っていた。
笹冬の祖母は、幸江という名前だった。父の祖父母は長男の琴房がおぼろげに知っているぐらいで、末っ子の笹冬には、この祖母が祖母という唯一の肉親だった。
 
 
(13)祖母と夕飯のご飯を炊く

 或日のこと、夕方になっても母も兄弟達も家に帰っていなかった。

 小学校進学前の笹冬は父の富三の為にご飯を炊くことにした。
しかしいつもご飯を焚く釜がどこを探しても見つからなかった。
仕方なく普段煮物や茹でものに使う鉄製の鍋を取り出してみた。

 
(14)釜が見つからず途方に暮れる

 これはいつもご飯を炊く釜じゃない。
鍋の底がお椀の形をしている。
ご飯の味にうるさく味にも細かい父の怒る顔が浮かんできた。
そう考える気持ちが暗くなっていく笹冬だった。
 
 ところが笹冬のそんな心配をよそに、祖母はニコニコしながら囲炉裏端に枯れ枝を真ん中に集め、杉の枯れ枝に火をつけると其の煙と火が鉄鍋の底に当たった。
 

(15)茅葺きの家しかなかった 

 この時代は集落の家の殆んどが茅葺き屋根だった。
笹冬の家は当時の分家らしく特に家の作りが質素だった。
屋根の形は外から見れば寄棟造りだが寄棟の短辺と長辺が際立ち屋根の勾配も急だった。
疑似寄せ棟か祖の変形みたいだった。

 
(16)茅葺き屋根の作り

 梁、垂木、棟木と木造軸組みはしているが垂木に野地板や捨て板がなく家の中から茅の束が剥き出しに見えた。
天井板の内装材は元より無くうえを見上げれば4角錐の頂点の様に見えている。
 
(17)天井板のない茅葺き屋根だった


 そのため家の梁と言わず戸棚、障子、戸板さては屋根裏の茅葺きまで黒檀に油を引いたように綺麗なピカピカな色を出していた。
村の人が来ると、この輝く色にみな驚いてしまった。
良い色だ、薪の煙だけでこんないい色の光沢のある居間ガ出来ている。
本当に素晴らしいこう言って褒めて驚いて帰って行ったものだ。
 
 
(18)質素な家の作り
 
 そう喩えれば、縄文時代の家屋が土台の石と土台を置き地中から持ち上げたような格好に見える。
地中を掘っていないだけでよく似ている。
南樹には鉋が掛けているが鷲口の鋭い爪痕が残っていて荒々しい。
丸太に鉤を引っかけて運搬してきた材木と分かる。


(19)忘れられない居間の造り

  中でも忘れられない物に居間兼応接室を仕切る戸棚と障子の間仕切りの上の梁は巨大だった。

 
(19)巨大な梁が一本あった

 梁の背は三〇センチもあろうか、そしてその長さは四間位も有って堂々としていて柱間のなかにある。
父には自慢の梁だったし苦労話も楽しそうに生き生きと話をして楽しそうだった。

  そしてなつかしそうにこの梁を見上げるのだった。


(20)ガンタを使う

 ガンタ(木回し)を使い川に筏のように下流の岸まで流して、それからロープで馬に引き上げさせる。を馬は雪道を引かせ引きずりながら運んだ、こう苦労話を懐かしそうに話して熱気も帯びてくる。

(21)居間には裸電球が一個だけ
                          
 黒檀色の薄暗い部屋の中に囲炉裏があった。囲炉裏は大きく三尺四方ぐらいだろうか、正方形をしていた。他にあるものと言えば裸電球一個と小さなトランジスタラジオがポッツリとあるだけだった。


(22)父の設計になる記念の食器棚
 
 その部屋の中には父が心血を注いで設計したと言う居間と台所を仕切る食器棚があった。居間と厨房側から食器その他小物類と諸々のものを収納出来る様に作っていた。

 二段式で戸板は引き違い戸で片面二枚二枚の二段、片面四枚、両面で八枚有り、一段目の戸板の下は全部出しで戸棚の奥行きが引きしの長さとなる、高さは二十センチぐらいで八個あった。

 それは貧しい家にしては不釣り合いにも見える多機能型の食器棚だった。

 そのほか居間側から見て一番左側に幅四五センチ高さ九〇センチ位の丁番で吊り下げたドア式の収納棚を一段にして作っていた。
 
 そのドアタイプの棚をはさみの上は二つの一番下は一つの引き出しを作っており、御祝いの時の記録を丹念に書いた長い帳簿などが入っていた。
 
 又、その下の丁番タイプの扉のスペースだけは鉋や釘など父の大工道具を入れていた。
 
 合計、横幅二間半、高さ六尺も有ったのか。薄茶色で塗装をしていたがこれも囲炉裏の煙で黒檀色になって豪快な立派な塗装になっていた。

 この家を訪れた人々はこの食器棚の偉容にもただただ驚いて帰って行ったものだった。
 

(23)住まいの家は兼倉庫作業場
 
 この貧しく質素な家はいろんな物を詰め込み農家の住まい兼倉庫兼作業場だった。

 農作業用の小屋を作る余裕がないからである。
村の家々は何処も田圃の中にあった。
周囲を見渡すと笹冬の家からは遙か遠方に月山なり美しい光景だった。

 まず目につくのは、家の佇まいが遙か遠方に月山が正面になりよく見える田圃の中だった。

 笹冬の家は山からは離れてはいるが近方の三角形の斜面の山ガ見えた。
そして家の玄関の横は家畜小屋が家と繋がってあった。
 
 思い出すと家畜の存在は母の命を縮めることになった。
毎朝早朝、朝露に濡れた牛の草を母が懸命に背負って家に帰って来るのを何年も見たことか。

 このことは笹冬に辛い思い出として後年まで残った。


(24)家畜の牛

 あの牛さえ飼っていなかったらよかったのに。
母の体は朝露にどっぷり惨めなくらい濡れていた。
 
 あの日あの時両手に藁を掴んで重荷を取り払ってやれたら、今日どれだけ慰めになれた物か後々まで笹冬は辛い思い出を述壊することになる。                 

 笹冬の家には農作業用の小屋というものがなかった。
稲刈りが終わり稲架木(  )、木のささの骨組みに乾燥させ終わると、稲の穂のついた束ごと家に入れた。
家中が藁の粉末だらけになった。

(25)分家で持っている田は少なかった
 
 そして次に脱穀機で脱穀をする。
母は子の季節に入ると足で押す脱穀機を夜通し回していた。
家の中は稲の藁の空気で前が見えないくらい酷かった。

そして次の作業に入る。日中から脱穀機を足で回し、夕飯が終わるとまた母は夜通し脱穀作業に追われた。家の中は稲穂やら籾やらでゴミだらけになった 

 分家らしく持っている田圃は三反三分と少しかなかった。
しかし子供四人と両親を支える貴重なおコメは足りていたのだろう。
父母共米を買いに言ったと言うのを聞いたことはない。

 
(26)米を作るのが生活の中心
  
 笹冬の幼年時代は両親のコメ作りと共にあった。
後年笹冬の思い出に去来する出来事は、貧しいながらも辛苦の中でさえ父母二人の笑顔があり、我が家の食料とするために稲を育てた父母の仕事を誇りに思わせた事だった。